猿猿日記

主にゲームに関して呟きます!楽に攻略することをモットーとしています

「現実とは何か?」 〜現実の曖昧さと懐疑主義〜

 

 

現実とは一体何なのか?我々が普段から認識している数々の「現実」や「事物」というのは現実として確固たる存在ではないのではないかという問題を提起できる。その点について「現実」「言語」「知覚」の3つに分けて議論する。

  「現実」では、例えば白い色をした三角形のシールが白い壁に貼られていたら認識できない。また三角形自体も 十円玉が楕円形であると認識しているが立てかけて上から見れば単なる線にしか見えないのである。四角形や三角形、円とは単なる直線または曲線などの輪郭(構造線)によって囲まれている内部を事物そのものではなく関係の中で知覚しているのである。その証拠に騙し絵がある。事物そのものではなく、三角形には二等辺三角形や正三角形などなど様々な素材や形があるが内角の和が180度であるという普遍的な共通の真理によって「三角形」だと認識しているが内角の和が180度というのは平面幾何学でのみでしか成立せずリーマン空間位相幾何学においてでは事実ではないのである。古代ギリシャ古代エジプトにおいて誕生したユークリッド幾何学プラトンアカデメイアにの門に「幾何学を知らざるものここに入るべからず」と記したように不動の基礎、公理、絶対的真理として長年信じられてきたが19世紀になってそれまでのユークリッド幾何学における平行の公理がボヤイ=ロバチェフスキー幾何学では平行線が2本以上存在するリーマン幾何学では平行線がないとする非ユークリッド幾何学によって相対化された。また、量子力学は既存の物理法則に当てはめることができないことが判明し、アインシュタイン特殊相対性理論によってニュートン以来の絶対時間、絶対空間が崩壊し、ペンローズの図式やホーキングの仮想宇宙は物理学的な時間(エントロピーの法則による状態遷移が持つ一定の方向)による宇宙の始原を想定せず重力場での屈折で説明をつけることで物理学的時間を物理学上の運動状態記述の一仮説にすぎないとし、方向、直線的に単純に伸びていくものではなくランダムに流れているものが時間なのであると説いた。これらはすなわち実体論で考えている現在の世界そのものに対して疑問を生じさせることに他ならず我々の「常識」や「普遍」を打ち砕き、「現実」が確固たるものではないということを言える。事物そのものが在るだけでは時間や情報は生まれず事物と事物の間にある情報、事物によって貫かれている情報こそが世界を構成し運動や出来事の結果とともに生まれた時間、情報はそれぞれの生み出した個体すなわち事物にフィードバックされて環境を形成するのである。また、物理学的な世界世界そのものが同じ塩基配列が読み取り位置が変わることで別のものとして表現されることや事物世界において現実を構成する基礎として信じられている時間もまた運動する主体が前後という時間を作り出し、生活が創り出す場の中で構成されているにすぎないということから事物そのものが「現実」を作り出しているわけではなく、「関係」が作っているのではないかということが言える。

   

事物とは概念を切り分けたものであり事物、イメージの関係は実際には事物は多様であるにも関わらずその多様な事物で共通する特性(概念=イメージ)をさらに別の概念と区別し、閉じられたシステム内の差異の発生によって成り立っているのである。この関係性は言語にも言えることができる。例えば、事物を表す際、その事物のイメージを必ずしもその音で表さなくとも英語やフランス語など他の言語でも言うことが可能であるが、どのような音でもいいわけではなく、その事物のイメージもまた同じことが言えるのである。草のイメージを「クマ」など他の言語(関係性)が成立しているものにあてはめることはできないのである。言語音と事物イメージの差異システムという「関係」によって意味が生み出され、言語音と事物イメージははそれぞれのお互いの関係を通して定義される記号システムによって基づいている。つまり、「実体」としての絶対的物理音が言語を成り立たせるわけではないということがここでは言うことができる。

文学が非現実的なあり方で現実を描写するとあるが実際は文学的世界こそが生きている現実で「現実」として認識している世界こそがフィクションであるとという可能性、またこの世界が仮想現実ではないかという可能性を指摘することができる。

    事物そのものの不確定さ、曖昧さについては議論したが、では知覚はどこに生じるのだろうか?ものが存在し、その刺激が網膜に伝わって知覚を生み出すというプロセス、すなわち事物ー網膜の二元論、刺激情報のリレー的な「知覚」を生み出す関係は誤っているのである。なぜなら、貧弱な感覚入力を豊富化することが知覚能力ではなく豊富な情報から引き出し刺激作用の諸変数を弁別し分化することで「知覚」を成立させているからである。騙し絵からも理解することができる。ものの大きさを知覚する際に月と太陽、または指で丸を作った際その丸と太陽や月の大きさは我々が認知している本当の大きさとは異なる結果、実際は小さい方が大きいと思えて「しまう」状況に陥ることは間違いない。だが、指の丸の大きさが太陽や月よりも大きいというのは現実社会において正しくはないとされる。これは「理性」が働いてるからに他ならない上に実体論からなる「現実」を絶対なものであると考えているからに他ならない。だが、この「理性」もまた信用できないものなのではないかという疑問を提起できる。一方でものの大きさとは、それを知覚する人との関係し、配置関係によるのである。

     また、人体においても我々は普遍的な常識として皮膚の外側を他者、内側を自分と認識しているが内と外は連続してつながっている同一麺であり同じ空間なのである。つまり空間的、物理的な根拠では自分(私)を指すことができないということである。有機的に空間を組織化している機能、有機的なフィードバック組織を作り出しているのがを「私」とするならば有機的な機能は拡張され皮膚が作り出す身体を超えて存在することになる。また幻肢のように物理的には存在しないものを自己の身体だと認識してしまう現象もある。また、動的平衡(1953年にDNAの構造がワトソンとクリックによって発見されて以降DNAの構造が解明されていき分子生物学の幕を開いた。遺伝子操作技術が発展し分子生物学が黄金期を迎える中で分子生物学的な生命観では生命体とはミクロなパーツからなる精巧なプラモデル、すなわち自己複製を行う分子機械にすぎないとされていたが生物と無生物を識別するための新たな生命観が要求されるようになり「生命とは何か」という問いについて考える必要が出てきたのである。その答えとして出てきたのが「動的平衡」である。動的平衡とはルドルフ・シェーンハイマーが提唱したもので実験用の成熟ネズミに重窒素で標識したアミノ酸を含み餌を与えたところ生命維持のエネルギー源として燃やされ重窒素は排泄、排出されるものとされていたが重窒素は体内のあらゆる部分に多く取り込まれたという実験で、重窒素アミノ酸が体内に入るとアミノ酸より下位の分子レベルに分断され改めて一から多数のアミノ酸、タンパク質を組み上げると同時に組み上げた量と同じ量のタンパク質を分解して体外に排出させたという結果から重窒素アミノ酸がネズミの身体の中で再構成されてくまなく流れ過ぎていくダイナミックな流れのことであり重窒素アミノ酸の例の他にも体脂肪や脳を構成している原子など生命体そのものに作用している現象である。細胞が絶えず流れの中で入れ替わるということは今いる「私」と過去の「私」が生物学的には別人であることを示しているということが言え、だとすれば「私」とは何か?「自我」「意識」ということへの疑問が生じる。裏返せば確固たる「私」は存在しないのである。感覚においてもアイネシデモスのエイリアンの存在を仮定するとエイリアンは我々とは異なる感覚印象(ESP.超感覚的知覚)を持っているかもしれず、人間について「感覚」の正確さ、すなわち直感能力としての知性が適用しない可能性があり言えることはエイリアンについては全く言えないといえる。また、エイリアンにとどまらず地球上の他の動物においてもその他の動物の感覚を人間は把握することはできない。さらに、人間にも私が赤だと認識しているのが他の人間には青だと知覚しているかもしれないという「色覚逆転」に気づくことはできないことから「感覚」に対する疑問が生じる。上記で「自我」「意識」についての疑問について述べたがその根拠として「知性」が「感覚」、直観的能力としての知性に対する先ほどの理由からの疑問だけではなく、推論能力としての知性においても三段論法 (AはBである しかるにBはCである ゆえにAはCであるという帰結の真理が前提の真理に依存するというもの)が大前提が真であることを証明しなけれならない。感覚によるものではなく、知性の推論によらねばならないが、この推論の大前提が真であることをまた証明しなければならないという無限のループが続く無限後退、また無限後退を逃れようとうとしても何かを証明なしに譲歩によって想定し、それに後続するもののための証明に役立てようとするなら、出口のない仮定の方式が導入される仮定(相対立する仮定は等しい説得力を持ち、仮定が真理を言い当てたことを知ることは不可能である)、「ソクラテスは動物だ、動物は死ぬ、ゆえにソクラテスは死ぬ」の大前提を証明しようとする際に無限後退と仮定を避けようとするならば帰結を援用してソクラテスが動物なのは彼が死ぬことで証明できるとしか言えず、循環の方式に陥るため疑わしいものとなってしまうからである。また、「感覚」はアイネシデモスの十箇条方式によっても疑惑を導き出せる。第一方式「動物相互の違いを論拠とする方式」によって相違なる感覚器官によって知覚する感覚印象の間でどれが真でどれが偽なのかを判断することができず、「人間の相互の違いを論拠とする方式」である第二方式で人間が動物より「理性」を持っているが故に信頼できると認めても人間の個々にもまた身体的、感覚的に違いが存在しそれにより受け取る印象もまた異なる。「感覚相互の違いを論拠とする方式」である第三方式は例えばリンゴに対し人間の感覚器官は色、形、においなどを知覚することができ、人間の持つ五つの感覚器官が教えてくれる全てがリンゴの性質であると常識的にはそう認識できるが、懐疑主義的にはリンゴにはたった一つの認識を無色の光がプリズムを通過すると七色になるように感覚器官の違いによって多様なものとして把握しているだけにすぎないのかもしれないということ、逆にリンゴには無数の性質がある中でコウモリが超音波を知覚できるのに対し人間が聞ける音の範囲は狭いように人間の感覚器官が五つしかないから五種類までしか捉えることができない、また人間の感覚器官に限界があるのではないかということが言え、一つの感覚器官でも年令の違い、老年と壮年の間においてはどちらが正しいのか判断を下せない上に誰もが年令を持っている以上、同年齢の人に賛成することが考えられるためさらなる第三者が判定者には必要であり、この第三者を判定するためにまたまた第三者が必要になるというのが無限に続くということと古代ギリシアにおける四種類の体液からなすバランスによって健康が成り立っておりバランスが崩れることで悪い体液が生じ病気になるのだとする体液理論を基にして考えると「自然に反した状態にある人たちにはある種の悪い体液が混入しているが故に彼らは本当に存在するものから不適切な印象を受けるのだ」に対して健康人の体液だって混合しているために外側に本当に存在するものとは違うように現れるのではないかということと反面して病人の方こそが外側に存在するものと同様なものが現れているのではないかということ健康人も病人もまたものを歪める体液という媒体があるが故に健康人の体液に生じた歪みが病人の悪い体液のおかげで修正されるのではないかと考えられる。また悪い体液に存在するものを変える力があるならば健康人の体液にもそれがあると当然考えられるが、自然にかなっていて、病人は病人の自然にかなっているのだと言えるが「自然」が分からない以上この主張自体が無意味とかしてしまう「健康人と病人のさまざまな状況の違いを論拠とする方式」である第四方式、同じ事物でも距離によって見え方が異なる(例えば同じ船では遠くから見れば小さく止まっているが近くから見れば大きく動いているものとして見れ、同じ塔でも遠くからは丸く見えるが近くからでは四角く見える)「位置と距離と場所を論拠とする方式」である第五方式、暑い空気と寒い空気において肌の色は違って見えるが肌の本性上どのような色か語ることができず空気と一緒にその都度どのように観察されるかを語るしかできない「混合を論拠とする方式」である第六方式、砂粒はばらばらと塊の時では感覚的印象が異なるということから「量と組成を論拠とする方式」である第七方式、「全てが相対性である以上、判断を保留せざるを得ない「相対性を論拠とする方式」である第八方式、初めて経験した人と慣れている人では同じ地震でもその印象は異なることから「頻繁に出会うか滅多に出会わないかを論拠とする方式」である第九方式、習俗や法律がその地域では成立していても他の地域では認められていないことからの「生き方、慣習、法律、神話的信仰そして教義的想定を論拠とする方式」である第十方式とこれらの方式から「感覚」は信用性に欠けており、絶対な真理基準にはなりえないことが言える。さらに言うならば、人間は真理基準にはなりえない。なぜならば、人間が基準の判定者だと仮定するとそれを証明なしに主張することはできない、また証明をもって主張してもその証明が偽なら信用を失うためその証明は真でなければならないが、誰によってその真が真であると判定しなければならないのかと最初の論点に戻ってしまうということ、では、人間が基準に等しいと仮定してもまた、基準なしでは議論が成立しないため基準ありにせざるを得ず、その基準が誰なのかという問いが生まれ、それに対して人間であるとすると論点先取になってしまうため他の動物が人間が基準であると判定している他の動物がその基準だとすると基準なしでは証明できず、基準がありにするとまたその基準は誰なのかという問いに対してその人間=基準を判定するその動物が基準ならば論点先取になり、人間が基準であるとすると循環に陥り、さらに他の動物を基準にすると再び基準なしでは議論が成立せず、基準ありにするとその基準は誰なのかという問いと無限後退に陥るからである。これは感覚をもつ全ての存在の上に立ち判定を下す存在者であり超越的、超自然的存在である「神」にもまた適用されるとストア派を主張している。「神」、すなわちストア派でいう「自然」がものの性質と人間の感覚器官の間に呼称・対応の関係を設定した者だとしても一体どのような「自然」がそうしたのかというのかという疑問、「自然」が本当に存在するかという独断主義者の中での決着がついていない論争においてその判定をする人物が素人であるならば、信用性に欠け、哲学者であっても論争の当事者であるために判定を受ける者であって判定を下すことができない。神が世界の在り方と人間の認識のうりの間におけるシンメトリー、対称関係あるいは対応関係をつくってくれたという保証をすることができないという反論が可能なため「感覚」や「理性」などはおろか「神」ですら実在しないことになる。

 

    上記における具体例や懐疑主義的観点から「現実」「実体」「事物」が曖昧な存在であり確固たるものではないということ、すなわち「普遍」や「常識」言い換えるならば不動の基礎、絶対的真理など存在しないことを意味するのである。存在は独立、自立的な存在で「事物」がそれ独自で存在し意味をなすのではなくその間の「関係」によってこの世界は構築されていることが言えるであろう。

  哲学とはギリシア語でphilosophiaという意味だが、この内philiaとは愛という意味でsophiaとは知識という意味から成り立つとおり「知」をのぞむ学問である。哲学とは社会学に関係が深く、人間の社会生活において密接に関わり続けていたのである。古代ギリシャにおいて高級な知識とされたsophiaは不変であり、その対象もまた常に存在するもの、永遠に変わらないもの、本当に実在するもの、真の世界であると重視され、可変する知識は下級であるとされていたが、絶対的真理や不動の基礎に対して否定する学問(懐疑主義)がおこり、長きにわたって論争に繰り返した歴史を経ているがまさに我々の「普遍」だと思っているこの「現実」にも当てはめることができるであろう。「現実」に対して(「現実」だと思いこんでいる)何の疑いもないほど盲信するという行為は、情報統制や宗教迫害などに働く場合もあり危険なものであり、何も考えずその「現実」を絶対的真実だとし享受し続けている社会は怠惰、愚かであると言えるだろう。だが、懐疑主義者が元々ありもしないものを探さない、人生や世界を究極的に基礎づけるとされてきて諸々の原理を幻想とし、何もないとするその世界を肯定する人達であるならば、実体論に対して絶対のものではなく曖昧な存在であり「関係」こそが世界を構築しているのだとする新しい考え方に対してもその「関係」もまた実体論と同じく絶対な存在ではないのではないのではなかろうか。実体なんてものが世界にはなく、全てのものが無根拠であり真理を追求するのは愚かしいことであると一種の懐疑主義的な考えも見受けられるがこの世界を構築しているのは関係論であるとするその判断もまた一種の「真理」ではないのだろうか。